南部もぐりの伝統と潜水教育
南部潜りの誕生
明治31年6月、濃霧の中汽笛が鳴り響く。
洋野町種市沖で函館から横浜に向っていた貨物船『名古屋丸』が、この地特有の濃霧であるヤマセにより進路を見失い座礁沈没したのである。
沈没した名古屋丸を解体、引き揚げするために、翌明治32年、『三村小太郎』ら4名の房州もぐり(現在の千葉県)の潜水士たちが駆けつけた。この作業に地元の者が多数雑役夫して雇われ、その中に地元の青年『磯崎定吉』がいた。
定吉の素もぐりの様子や山立て(船上から陸地の地形を見て船のいる場所を特定する術)の正確さを見た三村小太郎は、定吉にもぐりの才能を見出し、ヘルメット式の潜水技術を伝えた。ここに南部もぐりが誕生したのである。
その後、三村小太郎は八戸に居を構え、南部もぐりの行く末を見守り続けた。
南部もぐりの活躍
青森県の十和田湖の湖畔に佇む十和田神社は、数百年にわたって参拝者が湖に投げ入れてきた賽銭を神社の再建の資金にしようとした。そこで、賽銭の引き揚げを潜水夫たちに依頼したが、十和田湖は八郎太郎(龍神)と南祖坊(のちの青龍権現)の戦いの伝統にもとづく聖地とされている湖であり、神の祟りを畏れて誰もその仕事をしようとはしなかった。
そんな中、定吉は七日七夜の沐浴祈願により身を清めてこの仕事に挑み、20日がかりで湖底から賽銭の引き揚げに成功した。その報酬として荷馬車7台分もの賽銭を手にし、これを元手に潜水を事業とする礎を築いたのである。このことが南部もぐりの名が全国に広まるきっかけとなった。
我に五十の齢を与えたまえ。我種市潜りの始祖たらん
定吉は神社の青龍権現に賽銭引き揚げの成功を報告し、自らの未来を祈願した。
大正11年、まさにその言葉通り50才での幕を閉じたのである。
南部もぐりは、日露戦争や二度の世界大戦などで沈んだ船等の解体、引き揚げに世界各地で活躍した。
現在では、ヘルメット式潜水だけでなく、スキューバ式やフーカー式、全面マスク式など各種の潜水方式を駆使し、本州四国連絡橋やレインボーブリッジ、東京湾アクアラインなどの工事、関西空港の浚渫(しゅんせつ)、羽田空港の拡張工事、その他、港湾土木、サルベージ、海洋調査研究、水産業など各分野、全国各地、海外で活躍している。
陸上では分業されている仕事も、水中では潜水士が全ての作業を行う。南部もぐりの潜水士は、その仕事に誇りを持ち、実直で丁寧な仕事で信頼を築いてきた。
南部もぐりの仕事
- 1. サルベージ
- 座礁、沈没した船などの調査、引き揚げ等
- 2. 港湾土木
- 港や防波堤などの基礎の造成など水中部分の作業
- 3. その他の土木工事
- 橋の橋脚や橋台などの水中部分の作業や、河川の護岸工事など水中で行う工事
- 4. 海洋調査
- 生物や資源、水質、地形、地質などの調査の他、海中にある構造物等の状態などの調査
- 5. 水産業
- 魚介類の採取や、養殖設備や定置網などの点検や補修等
その他、水中での作業を幅広く行っています。
南部もぐりの装備
- ヘルメット(20kg)
銅製で、カップ(頭部)とシコロ(肩部)で構成されている。
カップには送気ホースがつながり、常時、空気が送られる。
シコロは潜水服と密着し水が入らないようになっている。 - 潜水服(7kg以上)
ヘルメット用のドライスーツ。ゴム製で、全く水が入らず、潜水服内にたくさんの空気をためられるようになっている。 - 潜水靴(両足15kg~20kg程度)
底が厚い鉄板で、体を安定させバランスをとるため重くできている。 - 鉛錘(えんすい)(前鉛・後鉛:前後合わせて25kg~30kg程度)
シコロの前後に、体のバランスをとるために取り付ける。これがないと、腕に空気がたまった時に、腕が浮いて体が横向きになってしまう。 - 腰ベルト
腰に巻き、潜水服の下半身側に空気が入りにくくする。下半身に空気がたまると、逆立ち状態になってしまう。腰ベルトには、送気ホースを固定する。 - 送気設備
コンプレッサー(空気圧縮機)、空気槽(調節タンク、予備タンク)、空気清浄装備、流量計、送気ホースなど
年表
- 1837年
- イギリスのシーベが、現在のヘルメット式潜水器の基となる潜水器を開発(その構造は、ほんとんど変わっていない)
- 1872(明治5)年
- 増田萬吉により国内でヘルメット式潜水の製造・利用が始まる
- 1898(明治31)年
- 洋野町名護屋丸座礁
- 1899(明治32)年
- 名護屋丸引き揚げのため房州潜りが種市に
房州潜りの組頭であった三村小太郎から、地元の青年磯崎定吉がもぐりの技術を伝授される
この地域が南部藩(八戸南部藩)であったため、「南部もぐり」と呼ばれる。